イタリア・トリエステを訪ねるツアー

 「イタリアは精神病院を全廃した」という話を聞いたことがあるでしょうか?全国精労協では2009年の定期大会に、ジャーナリストの大熊一夫氏を招き講演をして頂きました。それをきっかけに、2009年10月に全国精労協の有志でローマ、トリエステ、ヴェネツィアを巡るツアーを企画し、イタリア各地の精神保健施設を見学し、現地の従事者の方に様々な話を聞いてきました。 以降、全国精労協では、学術団体での講演・発表や、機関紙への寄稿、イタリア関連のイベントの開催に携わってきました。

 以下に、イタリアの様子を日本の精神医療の現状と比較しながら、いくつか紹介したいと思います。

 ※詳しく知りたい方は『精神病院を捨てたイタリア、捨てない日本/大熊一夫著』がオススメです。

●イタリアの精神病院について

 イタリアは1960年代に12万床以上(人口は日本の約半数)あった精神病床を、1999年に全廃させました。理由は、精神病院の廃止が決められる1978年以前の精神病院の状況があまりに酷かったためです。

 当時の法律は『たとえ治療の必要性がある患者でも、社会的危険性が認められなければ入院出来ない』という社会防衛を前面に出したもので、隔離収容政策が進められていました。

 病院の中での入院患者の処遇は凄惨を極めており、身体拘束、電気ショック、強制労働は当たり前で、ロボトミー、人権侵害、看護人による暴力などなんでもありの状態だったそうです。当時、「入院患者を1日一定時間日向ぼっこさせなければいけない」という法律があったようで、入院患者は拘束衣を着させられ外に転がされていたそうです。

 敷地も収容数も広大で、ローマで見たサンタマリア・デッラ・ピエタ・ディ・ローマ旧精神科病院は最盛期には2400人もの患者が収容されていたそうで、一つの集落のようでした。ヴェネツィアに至っては、サン・セルヴォロ島、サン・クレメンテ島という『精神病島』さえ存在していました。

 

「精神病島」サン・クテメンテ島
「精神病島」サン・クテメンテ島

●精神保健改革発祥の地『トリエステ』について

 トリエステは、イタリア北部に位置する人口約24万人の小都市です。ここがイタリアの精神病院を全廃させるという精神保健改革を巻き起こす拠点となった場所です。

 トリエステにあった最盛期には1200床を誇ったサン・ジョバンニ旧精神病院は、イタリア全土から精神病院が完全に消えた1999年に先だって、1980年にはすでに完全閉鎖をしました。旧病棟は地域支援の拠点である精神保健局、精神保健センターに姿を変え、作業所、グループホームなどにも転用されています。

 現在、トリエステの精神保健はWHO(世界保健機構)の推奨モデルとなっており、世界最高峰の地域精神保健システムが構築されています。

●トリエステと『バザーリア法』

 精神病院を廃止するというトリエステの改革を先導したのは、精神科医のフランコ・バザーリアという人物です。

 バザーリアは当時の精神病院を「病院の装いをした監獄」「感謝の気持ちでいっぱいの奴隷たちの避難所」「人間としての尊厳のかけらも残っていない巨大な肥溜め」と表現しています。そして、「監視しなければならないなら、治療など不可能だ」と悟り、ここを本丸に「自由こそ治療だ」だというスローガンを掲げて、精神病院解体に向けた大きな運動を巻き起こして行きました。

 その中で行われた取り組みは様々で、閉鎖処遇・男女別・重症度別に振り分けられていた患者を、開放化・男女混合・地域別に再編成し、地域に支援の拠点となる精神保健センターが出来た時にそのまま地域へ移行しました。

 社会的入院者に対しては『オスピテ』(お客、当初600名)という呼称を付け、病院からは一切干渉を受けない形で敷地内に住まわせ、ホームレス化を防ぎました。

 また、患者の多くは長期に渡る管理的な入院生活により自発性や意欲を失っていた為、『アッセンブレア』という患者集会を頻繁に開き、徹底的に討論を行う場を作り、抑圧的な管理体制から解き放ち、患者と職員の共同体としての意識を強めて行きました。

 職員に対しても、労働組合や病院解体に反対する職員と何度も話し合いが行われました。

 同時に社会的な働き掛けとして、患者たちとのデモ行進、飛行機を借り上げての遊覧飛行、反対運動との度重なる話し合いなどが行われました。また精神保健改革の組織も結成し、精神保健の枠組みを超えた大衆運動を呼び掛けました。

 社会的入院者である『オスピテ』の存在も、本当の問題が精神病ではなく、彼らを受け入れることの出来ない社会の方にあることを訴えました。

 この様な内外に対しての働き掛けが、患者も職員も市民も巻き込んだ国際的大運動となり、1978年に精神病院閉鎖の決め手となったと言われる180号法(通称バザーリア法)を制定させるに至ります。その法では精神病院への新規入院が禁じられ、1980年、サン・ジョバンニ精神科病院は完全に閉鎖されました。

 

トリエステ・サンジョバンニ医院
トリエステ・サンジョバンニ医院

●首都ローマと東京都板橋区

 バザーリア法が制定し各地で精神病院が閉鎖されて行く中、1998年になってやっと閉鎖を迎えた、イタリアで最も古く、最も巨大だったローマのサンタマリア・デッラ・ピエタ・ディ・ローマ旧精神病院を訪れました。最盛期には2600人を収容した巨大病院は、現在は精神病院博物館、地域精神保健センター、図書館などに転用されています。

 現在のローマの精神保健サービス網は5つに区分されます。例えば、ローマE地区では人口50万人に対し、精神保健センターが8ヶ所配置されています。病床は総合病院に30床、私立が約280床です。

 ちなみに筆者が働く病院がある東京都板橋区がほぼ同規模の人口です。板橋区には精神病床を有する施設が8ヶ所あり、病床は2000床を超えます。そのうち、強制入院が6割に達していなければ行けないという、いわゆる『スーパー救急』病床が200床あります。これをローマE地区に習い8病院全てをセンター化すれば、病床は約1700床減らすことになります。当院の病床も約550床から40床程度までアウトサイジングされることになります。目を逸らしてはいけない、次世代に課せられた重い課題であります。

●作業療法の廃止が、地域へ飛び出す原動力に

 イタリアの作業療法は、当時の日本と同様に患者に清掃や庭仕事などの無賃労働をさせていました。バザーリアはこの作業療法に賃金を付け、患者の就労の場を作ろうとしました。これが裁判にまで発展する論争となり、結果、患者であっても最低賃金法が適応される労働者であることを認めさせることに成功しました。

 このことで重要な点は、患者が労働者として認められたことです。このことにより主従関係にあった患者と職員は、同じ労働者として団結すべき仲間となり、共に地域の中で生きる権利の獲得に向け連帯することが出来ました。そして、患者、労働組合、医療者、市民が労働者という一点で混ざり合い、地域でさまざまな事業を展開することになります(当時の様子は『人生ここにあり』という映画で描かれています)。

 これが1991年に社会協同組合という形で法制度化し、精神病院の患者や職員の就労の受け皿となり、病院から地域へ飛び出して行く原動力となりました。現在、社会協同組合は2500ヶ所を超え、様々な職域をカバーしています。

 イタリアと日本の大きな分かれ道はこの点にあったと考えられます。イタリアは、作業療法を労働にすることで、患者を労働者にまで回復させ精神保健改革を成し遂げました。一方、日本では1974年に作業療法を診療報酬化させ、医療の枠に押し込めました。そして、日本は依然、入院中心の医療が続いています。

●イタリアと日本の比較

 イタリアと日本の差異は単純に病院数や病床数なの数の問題だけではありません。非自発的入院や行動制限(隔離・身体拘束)など、患者が危機的な状況に陥った際に行われる処遇に大きな違いがあります。

 まず、病床数の比較においては、日本は80年代後半から爆発的に病床を増加させ35万床(病院数1600ヵ所以上)に達し、以降その数を頑なに堅持しています。それに対し、イタリアは1978年のバザーリア法の成立以降、1999年までに公立病院は閉鎖に至っています。その代わりとして総合病院に15床未満の病棟などを整備しています。

 平均在院日数は日本の平均300日に比べ、イタリアの総合病院精神科では11.4日、精神保健センターでは21.1日と圧倒的に短いです。

 非自発的入院と隔離・身体拘束の件数の違いについては、日本の状況を見てみると、2003年から現在までの間に、閉鎖処遇率、医療保護入院数、閉鎖病棟数、隔離室数と軒並み増加しています。更に、民間精神病院の病床数も増え、入院医療の閉鎖性はより強固になっています。一日に行われている隔離・身体拘束数の件数は15000件以上であり、2003年から1.5倍以上増加しています(これは救急病床の増加と、認知症患者の増加が影響している)。

 一方イタリアでは、隔離室、閉鎖病棟は存在しません。身体拘束も40%の公的病院が行っていません(特にトリエステのある北イタリアが行わない傾向)。強制入院数は日本の4分の1、トリエステにおいては15分の1以下です。

 『脱施設化』の名のもとにイタリアが廃止しようとしたものは精神病院だけではなく、精神障害者を隔離収容し、人権・尊厳を侵す全ての施設・制度です。その意味において隔離・身体拘束を行わないことを前提とした支援システムが構築されています。

 日本が病床削減を成し得ないどころか閉鎖化の一途を辿るのは、法制度の文言や表面上の数値のみに着目し、社会のあり方自体を問うことが出来ないからではないでしょうか。